それは、森近くの小さな村。周りは豊かな自然に溢れ、買い物をするのには隣町まで行かなければならないような程の。同じ年頃の友人の中には「不便だ」と唇を尖らせる者もいたが、夏目貴志には居心地のよい場所だった。
近くの山から流れてくる澄んだ小川も、晴れ渡る蒼い蒼い空も、ゆったりとした時間の流れも郊外には無かったものだ。

正午も間近という頃、その日は晴天に恵まれた為、夏目は友人のNと共に彼のトモダチの世話の手伝いをして午前の時間を過ごした。ややぼんやりとしたところがあるものの、彼は博識で物腰も柔らかくトモダチが大好きだ。この村に越してから知り合い、打ち解けるのに時間は掛からなかった。借りた本を読むのを楽しみに家に帰ると丁度外出用の服に身を包んだ家主の望と鉢合わせた。赤い頭巾を被って、布の掛かった籠を抱えている。隣町にも出掛けるのだろうか。
目が合うと望は形の良い口を薄く開いて微笑んだ。

「貴志くん、丁度良かった。今から田沼くんの看病に行こうと思ってたんです」
「田沼の?なら俺が行きますよ。午後から平和島さん来るんでしょう?」
「口約束ですから、確実じゃないですけど....お願いしていいですか?田沼くんも君が行った方が体調も良くなるでしょうしね」

望の言葉に顔が赤くなるのを感じながらも、夏目は彼の被っていた頭巾と籠を受け取った。ふわりとパンの芳ばしい匂いが鼻を擽る。
田沼要は、森の奥に住んでいる画家の青年だ。夏目が村に来て暫くした頃、森に入り込んでしまった処を助けてくれたことで知り合った、物静かな雰囲気の優しい男だ。
前は夏目と同じように郊外に住んでいたことがあるようで、共にいると楽しいし落ち着いた。
そんな田沼が寝込んでいると知ったのは昨夜、狩人を務める平和島静雄が望の家を訪ねた時だ。彼は大きな獲物が捕れると決まって望の家を訪れたし、そうでない時も夕飯を共にすることがよくあった。


「じゃあ行ってきますね」
「帰ってきたところすみません。あ、くれぐれも森の中は通らないように」

遠回りになっても、ちゃんと道を通ってくること。狼に食べられてしまいますからね。


望の言葉に夏目は「はい」と素直に答え、田沼の家へと歩き出した。途中、一度振り返って望に手を振る。
穏やかな天気のためか外出する村人も多く、夏目は何度か顔見知りに挨拶をしながらも、森の近くまでたどり着いた。
そして、はてと悩む。望にはあぁ言われたが、何度か田沼と森の中を散策したことがあるので、特別と森を怖いと思ったことは無いのだ。
田沼が住んで好む森だ。思える筈も無かった。その上まだ、太陽が真上にあるような時間帯だ。まだ、一人で歩いたことのないだけで、田沼の家までの道だって覚えている。夏目は少し逡巡して、そして森の中へと進んだ。何よりも、近道なのだ。一人暮らしなのに寝込む田沼の元へ早く行きたかった。





森の中は相変わらず静謐な空間だった。木漏れ日が畦道に落ちて、鳥の囀りが響く。綺麗で優しい空間だ。
人が二人程しか通れない幅の道だって、獣道に近い。いつも二人で歩いてる道を一人で歩くというのは、何とも不思議なものだった。

「あ」

道の脇にたくさんの花々が咲き誇っているのを見つけ、夏目は足を止めた。小ぶりだけれど、木漏れ日を受けてどれも綺麗に咲いている。田沼と歩く道すがら、目には入っていたと思うが、こんなにじっくりと見たのは初めてだった。
そうだ、何本か持っていこう。
夏目は膝を付いて、摘む花を選んだ。せっかく咲いているのを悪いとは思いつつも、茎から折っていく。田沼の家に着いたらすぐに水を入れよう。喜んでくれたら嬉しい。
数本選び、夏目は再び歩き出した。
森も奥までくると、木々が多くなるにつれ落ちてくる陽の光も細いものになってくる。知らず知らずと籠を持つ手には力が入っていた。田沼の家まではほぼ一直線だ。確かあともう少しだった気がする。
案外、景色をよく見てなかったのだなぁと夏目ら一人思った。

「おや、こんな所にあの子以外の人が」
「?!」

不意に聞こえた声に夏目は驚き肩を上げた。
「おや、ごめんなさい。驚かせてしまいましたね」と言いながら、一人の男が前の道からやって来た。森を挟んだ所にある町の人だろうか。色白い肌には雀斑があり、黒々とした瞳は望を彷彿とさせたが、彼と違い目の前の男の髪はきらきらとした銀髪だった。首から下はマントに覆われており、足元も見えない。
あまり見かけない格好であるのに、森の雰囲気がそうさせたのか、夏目はただ綺麗な人だなぁという感想を抱いた。

「驚かせてしまってすみません。私は、この森に住む者です」
「森に?へぇ、田沼以外にも住んでる人が居たのか」
「あの子はタヌマくんというのですね。私の家はここから少し離れてまして、彼とは直接の面識はないのですよ」

一方的に知ってはいるのですけどね。

見た目から推測する年齢にしてはやや声が高いように思うが、落ち着いた声色で、こてんと首を傾げて言う銀髪の彼に夏目は「そうなんですね」と返した。田沼からも、この森に田沼以外の人が住んでいると聞いたことは無い。知合えば良いのにとは思ったが、それは口に出さずに夏目は愛想笑いを浮かべた。

「君はその彼の家に行くのですか?」
「はい、寝込んでしまったようなので」
「そうですか、早くよくなると良いですね」

彼はにこりと笑った。夏目もそれに合わせ微笑んだ。夏目は「それでは」と彼の横を通り抜け―――ようとした。
実際には真横に行くこともなく、腕を取られたかと思えばいつの間にか目の前には茂る青葉から垣間見得る空と、彼の顔があった。放られた籠からパンがいくつか転がり、瓶が道に出た。
困惑する夏目に彼は薄い唇に弧を描く。取られた腕はそのまま地面に押さえつけられ、顔の横には彼のもう片方の腕があった。

「ふふ、森の中を通っちゃいけないって教わりませんでした?」

細められた黒目が夏目を映すのを、混乱する頭の片隅で夏目は捉えていた。

「彼がいつも君を森の外まで送っていたのもね、私が彼を一方的に知っていたのも、理由はただ一つですよ」
「ひと....つ....?」

じゃりと音を立てたのは己か彼が。足を動かそうにも、目の前の彼のそれが間にあって邪魔をした。

「そう、ひとつ」

額が繋がる程顔が近づいた。腕を抑える彼の手には力が入ってるわけではないのに、どうしてか体が動かなかった。それはね、と耳に、脳に彼の声が流れ込むのを夏目は何処か人ごとのように感じていた。


私が狼だからですよ


まるで子供に問うような優しい口調で彼が言う。まだ陽の上がる時間、森の真ん中で告白された内容に夏目は何の言葉も出なかった。
そんな夏目から目を離さないまま彼は更に近づいて、あぁ、これではまるで、

そんな夏目の思考を読んだように、黒い目は尚も夏目を写したまま妖艶に細められた。
密やかに、秘め事を囁くように彼は言葉を紡いだ。


悪い子、言う事を聞かないから私に捕まっちゃって。でも逃がしてなんてあげないから。